top of page

​魚たちの呼吸

 河野の耳の裏には、エラが隠されている。
 本来であれば頭蓋骨の硬質な側面が指に伝わる部分が、その部分を撫でると柔らかく、陥没している。皮膚が膜を張っているかのような不思議な柔らかい部分には僅かなヒダが重なり、そしてそのヒダを指でなぞると隙間がある。河野は瞼を下ろし、たとえば暗闇で布団にくるまっているとき、本を読み終わってページを閉じたとき、湯船に使っているとき、つまりは一人でいるとき、時折耳をすませる。耳の裏に潜む、人間ではない部分、魚に由来する、呼吸器官のはたらいている確かさを掴もうとするように。肺呼吸の際に音がするようにエラ呼吸にも音があるのではないかと、耳を傾ける。けれど、後方に向けてはいない耳は、ちょうど真後ろに潜む隙間の気配を一切感じ取らない。ただそのヒダはそこにあるだけのように佇んでいる。
 しかし、機能していないわけではなく、ごく限られた状況、すなわち魚のように水中にいる間は、無意識のうちにエラは水中で呼吸を始める。水に含まれた酸素を吸い、河野は延々と潜水することだって出来る。河野は幼い頃、自らの身体について何も知らずに過ごしていた。触れることはあっても、そのヒダについて何も違和感を抱いてはいなかった。そこにあることが、いつも当然だった。
 幼稚園に通っていた際、夏のプールで、水に入るのを怖がる子供もいる中で、河野はずっと潜水し続けていた。水中をたゆたう、冷たさ、浮遊感、流動の虜となって、自在に泳いだ。人の目にその異様さが明らかになったのは、友達と何秒間潜れるかを競った時のことだった。一分、二分と経っても延々と上がってこない河野に、周囲の子供は歓声を通り越して驚愕し、そして恐れた。呼ばれた先生は溺れているのではないかと慌てて彼を抱き起こしたが、無垢な子供は目をぱちぱちと瞬かせて平然としながら、先生の、安堵と恐怖がないまぜになった顔を見た。彼の隠し持つエラは、空気に晒されてまた耳の裏側で息を潜めていた。
 プールでの潜水事件以来、気持ち悪い奴だと揶揄されるようになった。彼はエラを自覚するようになって以来、ずっとその存在を隠し続けている。
 両親はエラの存在を知っていた。頭蓋骨の形が耳の後ろの部分が欠けていることをレントゲンで知っていたし、皮膚の奇妙なヒダについても、縦に裂かれた隙間のことも知っていた。けれどそれが何を意味するのかは、両親にも医者にも分からなかった。ヒダ以外は至って健康であり、手術をすることもなく時間だけが流れていき、やがてそれがエラであることが明らかとなった。
 小学校に入学してから、河野は髪を伸ばし、常に耳の後ろが見えないように気を遣う。誰からも見えないように息苦しく注意を配る。水泳でキャップをつける際も、耳の後ろにほんの少し髪をはみださせた。他の子の水泳を観察し、通常は水中でどれほど呼吸が続くものなのかを数える。クロールや平泳ぎの練習をするとき、河野は呼吸のために顔を上げる必要などないが、他の子の動きを真似て口を開けて肺の呼吸を促した。他の子が息をあげている姿に沿って、やや大袈裟なほどに肩を上下させた。
 中学に上がり、野球部に入ったクラスメイトは髪を剃り、河野はさり気なく耳の後ろに視線を向けた。僅かに骨のおうとつの影が感じられる影と、傷のない肌がただ存在している。耳の後ろに髪は生えないのだと、人間観察をしているうちに気が付いた。家族も、同級生も、先輩も、後輩も、先生も、みな耳の後ろに無防備で、無垢な肌を抱いている。
 年齢を重ねるほどに同級生は色めき、特に男子は女子の体つきに目を向けるようになっていった。とりわけ水泳の時、未熟な膨らみや柔らかさにひそひそと会話がなされ、女子はそんな視線を軽蔑しながらひそかに男子の身体を見やって、すべてをよそに河野はじっと耳の後ろにばかり注目していた。
 決して人目につくところでは耳に手をかけない。一方で、他人の、髪を耳にかける仕草には自然と目が向けられた。とりわけ、教室後方の席についているとき、授業中であっても休憩時間であっても、反射の要領で視線が引き寄せられる。髪を耳にかける、その所作自体に心惹かれるのではなく、その指と髪の隙間に、ひっそりと隠されたヒダが見える瞬間を河野は探しているのだった。自分のエラは何も唯一の特別なものではなく、誰か仲間がいると、心の底で薄ら期待しながらも裏切られるばかりで、今や裏切りという概念も無く、ただ日常の一片として人の耳を観察した。先生に目をつけられない程度の長さで、河野は自分のエラを守る。普段は息を潜めていて、無音で存在しているだけの深い傷のような縦の亀裂。
 そんな自らの異常に、河野は嫌悪を抱くわけでなく、隠しながらも己の当然として受け入れていた。
 水を飲む。顔を洗う。手を洗う。皿を洗う。シャワーを浴びる。風呂に浸かる。日常で指先だけでも水に触れた瞬間にかすかな昂揚を覚えるたび、河野はもしかしたら自分の居るべき場所は水中なのかもしれないと考えたりする。
 危険の判別のつかない幼い頃、遊び心で風呂に頭をてっぺんまで沈めたままじっとしていると、湯が冷たくなったところで慌てた親に引きずり出された時から、河野は一体何時間と水の中に潜っていられるのか、試したことはない。試したところでどうなるのか、想像できなかった。耳の後ろにほんの僅か亀裂が入っているだけのほんの小さなエラで、成長していく人間の身体すべてのエネルギーをまかなえるとは到底河野には考えられなかった。
 けれど、水に触れて水に包まれ一体化する、水ではなく人の動きばかりを注視しながら、何も考えずに水の中で埋もれていたい。いっそ溺れるくらいまで潜っていたら、ようやく自分はただの人間であることを自覚できるかもしれなかった。ただの人間でいたいかどうかもよくわからなくなっていた。エラと河野は最初から混ざり合っていたから。
 
 
 高校に入って同じクラスとなった一青にまず感じたのは、珍しい苗字だということだった。
 黒髪を結ぶことなくすとんと下ろして、一青はいつもマスクを身に着け、拒絶と警戒を表面に浮かばせる。明らかな態度にはしない。薄い膜を張っているように静かに周囲から僅かな距離を置く。一青の周りに人が居ないわけではない。休憩時間になれば友人と喋っているし、移動教室になればやはり友人を伴う。マスクの下は見えなかった。昼食の時だけその唇は顕わとなる。なにか傷があるわけでもなく、ただ普遍的で健康的な唇へ食物が運ばれていく。食べ終われば当然のように口許を覆う。初め河野が一青に気が付いた時は、さほど違和感を抱かなかった。風邪か何かだと判断していたが、いつになってもそのマスクは外れず、春を越えて暑い夏に至っても外が紅葉に染まろうと、一青は涼しげな顔でマスクをつけ、長い髪はそのまま流れていった。
 たまたま席が近くなった際、昼食の時間帯、さりげなく河野は一青に目配せした。マスクを外すたった一瞬に、指の隙間、髪の毛の隙間、マスクの紐の隙間、耳の後ろが僅かにあらわとなってそこにエラが無いかを探した。
 河野にとって、それは食事をするように当然の行為だった。周囲に同属がいないか、探し続けてもう幾年が過ぎただろう。視線は雄弁にものを語る。だから絶えず観察の目を向けていると不審を誘う。慎重に横目で動きを伺いつつ、空気を探る。周囲にいる人の声、シャーペンを走らせる音、教科書を捲る音、教室に吹き込む風、弁当を取り出す音、廊下に響く足音、あらゆる音や空気の流れから予測を立てながら、耳許がさらけだされるその瞬間だけ視線を配る。今までもそうしてきた。特に女子の長髪は珍しくないので耳許が隠されていることも少なくない。けれどどれだけ秘匿されていようと、耳は無垢で、いくらでも無防備な瞬間がある。一人一人の、一つ一つの耳を河野の目は次々と曝き、音もなくバツ印をつけていく。
 一青の耳はしかし、エラ探しを極めた河野にも難敵だった。どれだけ試行を重ねても、その姿は判別できない。エラがあるともないとも言い切れない。確証が取れないのである。河野にとっては未知との遭遇であり、同時に胸が高鳴った。自分と同じ香りを感じ取ったように思った。彼もまた、耳元には恐ろしく緊張を強いていて、誰にも見つからないように慎重に守っている。温もっているのにどこか水面のような冷たさを筋に感じる、奇妙な穴。一青がもしもそうであれば、どれだけ目を配ろうと見つからないのは当然のことであり、同情に値した。
 河野は一青の情報を集めた。年中マスクをする珍しい苗字で目立つ一青、しかし本人の性格は恐らく目立つのを嫌い、集団を避けるタイプだった。声が小さく、過度な音を立てずに歩く。一人で机について本を読んだり、授業の予習をしている姿も珍しくない。それがますます一青を浮かばせるのだが、口許同様に耳許は相変わらず暗闇に潜んだままだ。
 どこか違う。河野は思う。一青は何かが普通と違う。
 だから近付くことにした。遠目で見られないのなら、近くで見られる関係になれば良かった。席替えのためのくじ引きの際、くじを取り替えて一青の隣にやってきた。河野が窓際だった。ノートと黒板を視線が行き来するたびに頭が揺れる。あえて河野は分かりやすく一青に視線を向けてみる。消しゴムを忘れたからと、借りてみる。借りたら、返すことができる。二度接触がある。消しゴムだけでなく、シャーペンの芯、ルーズリーフ、赤いマーカー、黄色の蛍光ペン、鋏。耳許を周到に隠し通しているのと同様、一青はどんな場合にも対処できるようにどんなものでも持っていた。文庫本、替えのマスク、鳥のブローチ、割り箸、小分け袋に入ったケチャップやマヨネーズ、裁縫道具、眼鏡をしていないのに眼鏡拭き。それらをポーチに入れて、華奢な鞄に潜ませている。あらゆるものを借りて、一青は河野の忘れっぽさやいい加減さに呆れたようだったが、その分少しずつ油断していった。一青には弟と妹がいて、一青はきょうだいで一番上で、やや大人びたところもあって、頼られると断れない典型的な性格をしていることを、河野は知っている。一青はよく誰かに物を貸していた。だからあらゆるものを持っていた。河野はそうした一青の人間性を知っていたから、隣に座る河野が物を借りても違和感はなかった。
 読んでいた本を先回りして読み切って、一通り他の作品にも目を通し、友人とテレビでやってた映画の話で盛り上がっているのを聞いたらその作品を鑑賞し、何気無い風を装って、自分も好きだと河野は言ってみる。面白かったよね、あの監督の、あの作家の。共通する部分があるとほんの少し見せるだけで、少し油断して安心する。
 上に遠いきょうだいがいることを伝えると、そうなんだ、と一青は微笑む。自分は四人きょうだいであると言った。河野はへえ、と驚いた顔をしながら、そのことを既に知っているし、本当は一人っ子だった。
 一青はエラではない秘密を抱えていることを河野は知っている。夜遅く、高層ビルがひしめきあい、その間を人と自動車が埋めるようなスクランブル交差点に紛れるように、一青はいつも違う大人と一緒にいてどこかに吸いこまれていった。それが何を示すのか河野は分からないわけではなかった。一青はお金があまり無いからと放課後の誘いをよく断る。一青は夜の冷え切った海中を藻掻いているみたいだった。息が出来ないまま泳いでいるみたいだった。それは河野がそう見ているだけで一青にとってどうなのか、知らない。地上は息苦しくて、本当は、本当に水中に潜っていた方が楽なのかもしれない、一青にとってもそうなんじゃないかと河野はどこかで信じたい。そうであったらいいのに。物だけでなく、自分自身も人に貸している、一青の耳の後ろ、一青を借りたら触れられるのだろう。一青が見知らぬ誰かと手を繋いで人混みに消えていって建物に消えていく写真をスマホに収めて、河野は拡大する。荒んだ画質の中、夜であっても一青はマスクを付けていて、耳の後ろは暗闇をくるんで見えないまま。
 適当に約束をとりつければ一緒に帰っても抵抗がさほどなくなって、放課後に返したい本があるからと言って図書館に行く約束を交わす。
 本を返して用事を終えてもすぐに帰らずに、二人で図書館の中を歩いた。本に囲まれていると落ち着くと一青は呟いた、その声が本に染み渡るように平穏で、日に焼けた古い紙の匂いがした。あるいは一青の家の香りだと思った。きっとシャンプーの匂いではないし、一青を貸した相手から刷り込まれた匂いではないと思った。図書館が一青にとっての息の出来る水中なのかもしれない。教室よりもスクランブル交差点よりも。
 河野は児童書コーナーの静まった本棚の前に立って、子供向けの図鑑を手に取る。魚の写真が一面に並んだ本を眺めて、懐かしがっている一青を見る。昔よく図鑑を開いて楽しんでいたと語る。一青は昆虫の図鑑を好んで開いていて、今取り出す。とりわけ蝶のページが好きだった。アゲハチョウに憧れて、小学生の頃に育ててみたかった。一番好きな種類を河野が尋ねると、ミイロタテハ、と答えながら、該当のページを開いて指差す。深い群青の翅と燃える赤い翅が重なっている。夜と夕方がはっきりと境界線を作って翅に宿っているようだった。毒々しいほど透いた色の組合せは決して混じり合わない。どちらの色の方が拒絶しているのだろうと河野はぼんやり、薄くうわべだけ考えた。黒い髪の隙間で耳のはじが覗いている。人の声がずっと遠くの方に消えていて、乾いた本の匂いもどこかに消え去って、河野は、ずっと潜水していた時のことを思い返す。肺ではない耳許で呼吸をするエラの動きを感じ取ろうとしていたことを思い出す。
 一青は河野を振り向く。髪を搔き上げられたからだった。抵抗される可能性を河野は少しも考えていなかったし、実際一青は何もしなかった。耳許、耳の後ろに河野は指を忍ばせた。そこには何もない、髪の一本も生えない無垢な肌、僅かに圧せば頭蓋骨が皮膚の奥に感じられた。
 君には、エラがあるかい。河野は尋ねる。一青はミイロタテハのページを開いたままで河野の顔を平穏に見つめる。凪いだ水面のような瞳をしている。マスクで依然表情を隠したままで。河野はさらりと流れる水のような一青の髪から指を外して、代わりに自分の耳に指を寄せた。片手で魚の図鑑を閉じる。表紙を飾るフグが憎めない表情で、ちょうど一青の方から見えた。河野は沈黙する隙間をなぞる。
 ミイロタテハは消えて、一青の手が同じ場所に寄せられて、河野はその指を迎え入れた。抵抗される可能性を一青もまた少しも考えていなかった。河野は本当は抵抗したかった。誰にも触れさせなかった場所にするりと一青の指が入り込んでくる。髪の毛で出来た珊瑚や藻の森を抜けて魚がなめらかに泳いでくる。青と赤の強烈なコントラストは南国の魚のようで、一青に合わないと河野は思う。何故なら一青は一青なのだから。一青はずっと温度の低い場所で生きているからきっとこんなに指が冷たく感じられた。一青は耳の後ろでエラに触れた。河野の胸は裏側で竦む。やわらかな肌を撫でられて、その穴に爪が触れる。一青は拡げることも裂くこともせずにただ触れただけで、ここに河野の命が潜んでいるんだと漠然と理解した。
 あるよ、と一青は呟く。
 河野は少しだけ沈黙を挟んで、尋ねる。どこに。
 秘密、と一青はマスクの下で微笑みながら息を詰めた。少しだけ上擦った声をしていた。一青が手を離すと同時に河野もまたぶらりと腕を垂らす。息をするのが難しいみたいに河野は口を噤んで、そして空気を吸う。
 だからちょっと息がしづらいんだ、と一青は笑う。
 
 
 やがて一青は学校に来なくなった。
 人ばかりがうようよ大群を成している都会の中に消えていったのかもしれないけれど、河野はなんとなく、一青はきっと水の中へ消えていったんだろうな、と思う。でもミイロタテハは水の中では生きていられないから、もしかしたらどこかへ飛んでいったのかもしれない、南国のあたりまで飛んでいって、そして海に潜ってそのまま浮かび上がってこないのかもしれない。河野は一青のたいらな耳許を指に思い返そうとして、まったく思い出せないことに気付く。もう河野は興味を失っていたから、一青が一人で帰路についていたり友達と並んで歩いていたり見知らぬ大人と手を繋いでいたりしていた数々の写真もとうに消去していた。興味があるのは一青の耳の後ろであって、一青自身が何か心に抱え込んでいようと河野にはどうでもよかった。目線は自然とみんなの耳許に引き寄せられていく。誰もが無防備な秘密の場所を抱いていて、きっと誰にも触れられないように守っている。
 いつか暖かい海に潜ろうと河野はなんとなく思う。耳の後ろで気泡が浮かび、どこか深くて、息のできる場所へ連れていってくれるだろう。


​了

© 2025 Umi Kohagi

bottom of page