墨夏
おばあちゃんちでの朝は、家中の襖を順番に開けていって、外を揺蕩うしずかな空気を家に通すことから始まる。
畳の上をすりながらかぼそい指先で行う所作にはいつも余裕があり、眠りについていた古い家屋に早朝の風が音もなく入り込んだら、安心して家が呼吸をしだす。ひとつひとつ、町を起こさないように。朝の早い虫の声が僅かに大きくなり、水に一滴インクをこぼしたような薄い青と太陽の白とが混ざって、外と内の境界線を曖昧にする。
ひなこの朝は、おばあちゃんの物音で始まる。
両脇で眠るお父さんやお母さんの寝息やいびきではなく、かすかに鼓膜をこするあの音がひなこの意識を呼び覚ます。それはまさに風が通り抜けていくようだった。肌を撫でていく少しひんやりとしたそよ風を感じ取るように、ひなこはちいさな瞼を開ける。音が出そうなほど長い睫毛がさりげなく瞬く。続いて、両親の眠る気配を嗅ぎ取り、鳥のさえずりや虫の声に耳を傾ける。少しずつ輪郭があきらかになっていく朝の過程をひとしきり噛み締めていくと、ようやく目が覚めたと自覚する。二人を起こしてしまわないように、ちいさな身体には重たい布団から這い出て、おばあちゃんの開け方よりもずっとゆっくりと襖を開ければ外の光が細く漏れる。部屋を出ると、そのまま縁側に足を踏み入れることになる。
光の透けた縁側をおぼつかない足取りで歩いていると、途中でおばあちゃんに出逢い、挨拶をする。ひなちゃん、早いね。おばあちゃんはゆっくりと礼をしてから、言外に偉いという雰囲気を醸し出させて言う。うん、とひなこは微笑んだ。その後は一足先に居間へと向かい、紫紺の座布団に囲まれたテーブルのはじっこに座る。テーブルの上には、ドロップ缶ほどの大きさの古びたラジオと、まだ手のつけられていない朝刊が置いてある。ひなこはラジオのアンテナをめいっぱい伸ばし、窓側に先端を向け、電源を入れる。既にNHKのちょうどいい周波数に合わせてあるから、すぐに人の声が聞こえ始めた。
政治がうんぬんかんぬん、世界情勢や紛争がうんぬんかんぬん、景気がうんぬんかんぬん、世間を取り巻く報せは飽和しているけれど、ひなこにはどれもよくわからない。まだうんと難しい。けれど、微妙にノイズが混じったような乾いたラジオの音声は耳心地が良く、好きだった。そして、金星が接近するというニュースを待った。ひなこにとって、唯一なんとなくわかるニュースだったし、最近の最大のトピックスだった。宇宙のこまかさは解らないけれど、月のクレーターも土星の輪も知っているし、太陽がものすごく遠くてものすごく熱いこと、そして金星が地球のおとなりさんだということも知っている。おとなりさんなのに気が遠くなるほど遠くて、夜空で見えるときと見えないときがあり、もうすぐ、おとなりさんがものすごく近くまでやってくるということだった。ひなこは無性に日々わくわくしていた。ぼんやりとわくわくしていると、いつのまにか近くで油蝉が鳴き始めていた。
お母さんが起きておばあちゃんと並んで台所に立ったのだろう、やがて包丁がこんこんとまな板を叩く音や、勢いのよい流水の音、ガスコンロで火を点けるときのちちちちという囀りのような音、お湯の沸く音だったり、そうしたさまざまな営みに伴う音たちが、家の静寂を少しずつめくっていく。音は空間を抜けて家のすみずみまで行き渡った。ひなこはそれらの生活音を、ラジオ音声を聴く耳とは別の耳で聴く。家が動き始め、朝が動き始め、人が動き始めた流動的な気配は、少女をにわかに浮き足だった気分にさせ、いてもたってもいられなくなったように立ち上がった。
木製の重厚なテーブルに、次々と朝食が運ばれていく。
にんじんや蒟蒻、じゃが芋やスナップ豌豆等を彩色豊かに敷き詰めた夕べの煮物や、焼いたししゃも、絹豆腐と蕪に若布も入った味噌汁、ひかひかと光沢をはなつ白米などが食卓にいっぺんに並べられる。ひなこは箸を丁寧に並べていく係で、そうしている間に一番遅起きのお父さんも起きてくる。
ひなこが一番好きなのは、朝採ったばかりの真っ赤なミニトマトが入ったサラダだ。プランターで植えられているミニトマトはすぐに用意できるように、台所から直接外に繋がる通用口のすぐ出たところに置いてある。ひなこは料理のお手伝いをするたび、ミニトマトを採りにサンダルを穿いた。真っ赤で、はちきれそうなくらい膨らんで、お日様をたくさん浴びてきらきらしている美味しそうな実を選ぶのだ。
ミニトマトと合わさるのは、冷蔵庫でうんと冷やしたしゃきしゃきのレタス。醤油ベースのドレッシングを適度にかけて頬張ると、レタスは力強く反発し、瑞々しい採れたてのミニトマトは噛み締めると甘い果汁が膨らむ。自分で採ったミニトマトということもあって、美味しさは数倍にもなるのだった。
朝食を終えると自分の皿を流しに出し、ひなこはさっそく出かける準備をする。
お父さん、お母さん、それにおばあちゃんはいつもよくわからない話をして、ひなこは頭の中がまっしろになってしまって、目の前がぐるぐるとして、大人の輪の中に入れず疎外されている雰囲気が居心地悪くて、眠くなってしまう。だからいつもそうなる前に出かけてしまうのだった。おばあちゃんは朝食に合わせてこさえたおにぎりをひなこに持たせ、お父さんは川に近付くなよ、と警告した。いつも口を酸っぱくしてそう言う。
小さなリュックサックにおにぎりの入った弁当と、お母さんが用意してくれた冷たい麦茶がなみなみと入った水筒を放り込んで、玄関口の網戸を開け放ち、ひなこは元気良く駆け出していく。
まだ朝の空気が張り詰めた外は、涼風が吹いている。おばあちゃんの住むこの場所は山に囲まれていて、ひなこの住む都会よりもうんと涼しく、とりわけ朝と夜は冷える。夜の間に急速に冷めた風は、日が出てもしばらくは涼しいままで山間を通り抜けていく。
ピンクのサンダルでひなこは細くゆるい上り坂になった道路を走り、突き当たりを左に曲がっていく。そこは町の商店街と住宅街を兼ねた場所になっていて、とはいってもほとんどが閉まっていて、それは早朝だからという雰囲気でもなく、ほんとうに閉まっている。錆びるに至る町の歴史を匂わせる、萎びた建物が静かに並んでいた。誰もいないようで、風を通すために開けられた玄関の奥では、人の動く気配がある。
ひなこの足音ばかりが町に響く。眠る町をたったひとりきりで冒険しているかのようだった。
ここの上り坂はおばあちゃんの家の前よりもうんと鋭い傾斜になっているけれど、いきどころのない力をたくさん抱えたひなこには大きな敵ではなかった。けれど走り続けるとばててしまうからぽつぽつと歩く。朝は涼しくとも真夏の直射日光はそれなりに鋭く、浴びているだけで汗の粒が額に滲み、やわらかで繊細な髪の毛が曲がりくねって肌に張り付いた。
誰も出入りしない道を、乾いたサンダルの音がこころもとなく通過する。
人気のない侘しい里山で、僅かに清流の音が浮かびあがる。
ひなこはその涼やかな音に引き寄せられるように歩く。つらい坂道をのぼりきると道は右へ向かって殆ど直角に近い大きなカーブを描いている。黄色い看板の前をひなこはちまちまと通り過ぎ、すると、古い家が密集していた景色は一気にひらける。遠くに鬱蒼とした山々、手前では力強く上へ上へと伸びる緑の稲が延々と続く田圃が広がる。蝉の声に蛙のくぐもった声が重なり、虫たちはちりちり、じいじい、ちちちちち、とあちらこちらで好き勝手に囁いている。そうした田圃が敷き詰められるばかりの中を一本の川が横切り、道はその川を跨ぐ橋へと繋がっていた。リュックサックをしょいなおすと、ひなこは迷うことなく橋のふもとの、岸辺へと向かう石階段を降りていった。階段のごつごつとした罅を埋めるようにオオバコの葉がちまちまと生えているところを踏まないよう無意識に気遣いながら、勢いよく駆け下りていき、砂利と雑草で埋め尽くされた河川敷へと辿り着けば、遠かった水流は目前である。
強くなってきた日差しを浴び、草花は自身の持つ色をいちだんと濃く染め上げる。
ひなこは自分の背丈ほどの葦の原を掻き分ける。素肌に当たってくすぐったいような痛いような、密度の高い緑の匂いを存分に吸い込むと、肺に限らず、自分まるごと緑に膨らんでいく。そうしてしばらくくぐりぬけていくと、川の傍までやってきた。足下の砂利のひとつひとつが太陽光を反射してまばゆく光る白銀の貝殻のようだった。今日の水流はゆるやかで透明だった。前日の雨風が強いと、こうはならない。もっと上流にある土石が削れて水嵩も随分増えて、全く異なるいきもののような濁った色となって、今ひなこが通り抜けてきた場所も踏みつけていく。
ひなこはしゃがみこんでからゆっくりとお尻をつけてリュックサックをお腹の方へひっくり返すと、中から水筒を取り出し、氷入りのきんきんに冷えた麦茶を口にした。乾いた喉を存分に潤す恵みが喉を通り抜けて、冷たさを内側に感じる。
ちち、ちちち、と小鳥の群れが頭上を通り過ぎていく瞬間、随分と近くで鳴いたような感覚で聴いていた。
水筒を隣に置いて、もっと水流の方へ近付いてみる。ほとんど濁りのない透明度の高い水で、底を埋める岩の鈍角や、水に流されていく小石の動きが音まで伝わってくるようだった。そうした水流の一番手前の浅瀬に視線を向ければ、ちろちろと指先ほどの大きさの、メダカのようなオタマジャクシのような黒い魚が小さな群れを成して泳いでいる様子を発見して、ひなこは身を乗り出した。ぐぐっと顔を近づけると自分の黒い影の中でその魚たちはひらひらとほんのわずかな尾びれを忙しなく動かしていて、よくよく観察すると風にたなびくシーツのようでもあって、おばあちゃんやおかあさんが外に洗濯物を干すあの透いた清潔感を彷彿させ、それが米粒の大きさの生き物の動きに凝縮されているのが不思議で、ひなこの目は一瞬釘付けになる。気になって数えてみたもののの、十を通り過ぎたあたりで動き回る魚たちに目がしばしばと乾き、わからなくなってしまった。
どうして、とひなこは思う。どうしてこんなにも小さいのに流れに負けないのだろう。今も水流は、轟々という凄まじい勢いまではなくとも、途切れることがなく、穏やかでありながら傾斜に任せて頑張って競うように走り続けている。そして魚たちはもっと頑張っていて、小さな身体のどこにそんな馬力ならぬ魚力があるのか、ひなこには漠然と不思議だった。ひなこは暑い中なんの抵抗もない坂をのぼるだけでも疲れてしまうのに。気になって手を水面下へ投入した。氷で極限まで冷やされた麦茶の温度を想定していたら、意外に少し温かく、しかし魚たちは驚いたのか一目散に分散してしまって、ひなこはあっと声をあげた。
群れは消えた。ばらばらになった。それぞれが孤立し、見えなくなった。
なんだか後ろめたい気持ちになり、別れた魚の中で、できるだけの行方を目で追っていたが、じきに石の隙間や水中から伸びる草の影に消えてしまった。
なんともいえないもやのかかった感情を抱えながら、濡れた手を引く。丸い指先からしたたり落ちる水を簡単に払い、周囲に視線を配る。川を渡る風は涼しくて心地が良かったし、草のざわめきも小さな森の中にいるかのようでひなこの冒険心がくすぐられた。
魚群の発見箇所を離れて左側、川上の方面へ少し歩いてみると、数歩先に濃緑の中に鮮やかな黄色が覗いていて、近寄ってみる、小菊だった。横たわっていた小菊はちょうど盛りだったように花弁をそれぞれ豊かに開いている。見えない場所に置いておくには勿体なく、ひなこの胸の中はむずむずとこそばゆいような思いになり、見えるところに束を直しておけば、いくらか気が紛れていった。
「ひなちゃん」
頭の上から急に声が降り注いで、はっとひなこは振り返る。
すぐ傍まで来ていたのは、ひなこよりも一回り背の高い、いくらか皺の寄ったまっしろなカッターシャツと黒いズボンを身に着けた少年で、夏の色鮮やかな花々というよりも、春の桜のようなやわらかく儚げな笑顔を浮かべていた。
「ひなちゃん、おはよう」
「おはよう」
ひなこもつられて白い歯を見せると、その少年の身体にとびこんだ。濡れたままの手で握りしめるシャツは少し湿り気をおびているようで、でもパリパリと独特の質感がして、おひさまの匂いがして、日干しをしたばかりのおふとんを連想して、ひなこの前で膨らんだ。
少年はひなこよりも頭二つ分ほどは大きく、ひなこの頭が少年のお腹のあたりにたどりつき、パズルのピースがはまるようにちょうどよく収まっている。そうした、互いの成長過程で偶然重なったちょうどよさがひなこを心地よくさせた。
名を昴といった。
ひなこと昴は葦の途切れた川岸に座り、お喋りに興じた。気温がぐんぐん上がってくる気配があったが、絶えず流れる川の傍にいると、いくばくか体感温度は低く、ときおり跳ねてくる水や水流の音楽が更に涼やかにさせた。この場所は納涼の地で、秘密基地だった。
ひなこは、おばあちゃんちに置いてあった図鑑を開いて、昴というのが星にまつわる言葉であることを話した。
おばあちゃんちには、幼いひなこにはとても読めない難しい本から、昔お父さんやお母さんが子供だった頃に読んでいたような気配のある、古びた子供向けの絵本まで、様々な書物が揃っている。本の並ぶ部屋には独特の香りが漂っていた。紙が長年の空気に触れて発酵していった、不思議な香りだ。星の観察についておばあちゃんに相談したら、本の部屋に案内されて、ひなこは初めてその香りを嗅いで、触れて、没入した。第一印象は苦手だったけれど、しばらくいるうちに慣れて、いつのまにか本の空気と自分が一体化しているかのような雰囲気を味わった。おばあちゃんは星の図鑑を取り出した。図鑑は、古いけれどもどこか真新しさも兼ね備えており、きっとあまり人の手に触れることなく本棚に収まっていたのだろう気配があった。おばあちゃんの指は確実にその図鑑を覚えていて、滞りなく背表紙を見つけ出し引き抜いた。写真が大きく載っていて、字も大きくて、丁寧にひとつひとつふりがなが愛情深くふってあって、絵本しか経験したことのないひなこにもなんとか読めそうだった。
ひなこは一冊の重たい図鑑を抱えて、夜の虫が鳴き始める頃、畳に座り込んでページを捲った。
太陽の話、お隣の火星の話、月の話、つまり太陽系の話。巨大な朱い灼熱の太陽の周りを惑星がくるくると円を描いており、青い地球はその中のひとつとしてぽつんと存在していた。
けれど宇宙は太陽系だけのものではなくて、その更に外側にまでずっと延々と続いており、地上から見える星たちについてひなこは見つめた。星座、そして銀河。彗星。あらゆる名をつけられた宇宙が存在していた。昴はその中で慎ましくひっそりと載っていた。おうし座にあるプレアデス星団とよばれる星の群れを示していた。おうし座は理解できたけれど、プレアデスセイダンはちんぷんかんぷんだった。プレアデスセイダンはわからなかったけれど、すばるという響きは既にひなこの中にすんなりと収まっており、ひなこはその時少年昴を思った。星の名を持つ少年が、遙かな宇宙に浮かび、静かに溶けていった。
そうしてひなこは少年を前に、図鑑で見つけた昴の話をした。少年昴はにこにこと相槌を打つ。
「昴は、冬の星なんだ。肉眼でも見える」
「にくがん?」
「夜空をそのまま見上げたら、見つけられるっていうこと」
「今度の金星みたいに?」
「うん、そう」
金星は、いつでも煌々と輝いていて、晴れていれば普段でもよく見えることを少年は知ってか知らずか、口を挟まなかった。
もうじき、金星が地球に接近する。数百年に一度、というほどの大接近、その天体ショーは俄に地上を賑わせていた。偶発的のようで、しかし緻密な計算のうえに導き出された結果である。ひなこは金星の大接近をテーマの中心にして、星の観察を夏の自由研究にしようと考えていた。
「じゃあ、今は昴は見えないんだね」
ひなこは残念そうに言う。
「そうだね。でも、半年後には見えるから、そのときまで覚えていたら空を見上げてみてよ」
「うん」
ひなこは大きく頷き、冬の空について思いを馳せた。
冬の空は曇りがちだ。雲が町に覆い被さり、はっきりとしない天気が続く。曇天から雪が落ち、とりわけこの山の中にある村は雪に埋もれていく。延々と大粒の雪が視界を埋め尽くし、積雪に更に重なっていき、大層な雪の壁となる。除雪車が毎日通り、人力の雪かきは冬の大仕事だ。足である車が動けなくなり、屋根に積もった雪を落とさなければ家が潰されてしまうから、休むことはできない。
雪は大気の汚れをその身で包んで、下へ下へと落としていく。
そのおかげで冬の空気は澄んでおり、時折晴れ渡る夜空は冴え渡って輝く。決して激しい主張ではなく、厳かにたたずまい、しんと光る星たちである。僅かに明滅するひとつひとつの星は、無音ながら、密やかに会話をしているようだった。ひそひそと秘密の言葉を囁いている様子を、地上ではとうてい聞くこともできずただ眺めている。一面を覆う雪はみずから発光しているように、暗闇に青白く広がっている。その雪がまた音を吸い込み、静かに冷気を発する。
その空には、有名なオリオン座を成す七つの星が堂々と輝き、冬の大三角形が描かれている。そして、六つの星が群れを成して浮かんでいる。昴、プレアデス星団のかけらである。
ひなこは想像した。冷え切った澄み渡る空に浮かぶ六連星を、そしてそのままの瞳では見ることができないであろう、青白い霧のような星雲ガスを。寄る辺のない宇宙に浮かぶ、青く美しい星たちについて。図鑑の写真をもとに、想像した。
たったひとり、いや、隣に昴がいる。二人ともコートを着て、外に長くいても寒くならないようにしっかりと着込んで温かくして、お母さんが用意してくれた湯気の立ちのぼる甘いココアを水筒に入れたりして、口からは白い息を吐き、じっと夜空を眺めている。昴は、あれが昴だよ、と指で方角を教えてくれる。優しい声音で、懐の深い声色で、冬の張り詰めた厳かさを邪魔しないように、そっと教えてくれる。
素晴らしく素敵な光景のように思われた。
半年後を覚えていよう、とひなこは決意する。ひなこの星の研究は夏で途切れず、金星の大接近で終わらず、冬まで続いていく。冬の昴をにくがんで観察するまで。
「夏の大三角形は、調べた?」
夏の昴が尋ねる。今ひなこの隣にいる昴は、冬でなく夏に存在する。
ひなこは頷き、リュックにしまっていたノートを取り出した。ムーミン一家が表紙を飾る自由帳には、自由研究ノート、とマジックで書かれている。お父さんに、一つのノートにまとめるといい、とアドバイスされて作ったけれど、まだ白紙ばかりだ。最初のページに金星のことが書いてあって、次のページには昴、そして夏の大三角形と続いていた。
わし座、こと座、そしてはくちょう座、それぞれが抱く三星を結んで描かれる壮大な三角形は、日本では春頃から顔を見せ始め、真夏から九月あたりにかけてよく観察できる。堂々と翼を十字の形に広げたはくちょうは星の散らばった夜空でも圧巻の存在感を示し、ひなこでも容易にそれがはくちょう座だと理解できた。
「アルタイル、ベガ、デネブ、だよね」
「うん、そうそう。よくできました」
昴は頬を綻ばせて頷く。
星に名付けられた言葉は、普段の生活では発することのない特別な響きを内包しており、口にすれば秘密の呪文を唱えているようだ。昴が褒めてくれたことも嬉しかったので、ひなこはもう一度三星を繰り返した。アルタイル、ベガ、デネブ。神秘的な味をした飴玉を転がす。無数に明滅する星たちの中でかつて名付けられた言葉は、宇宙の味がする。
ひなこはふと、自分の名前も星につけたいと考えた。昴も、毎年夜を巡ってくる。青白い綿を発露させてやってくる。それは昴、隣に座る少年の名前。昴のように、ひなこも夜空に存在したら。アルタイル、ベガ、デネブのように特別な響きを持ったなら。そう考えると急に自分の名前も特別なものに変換されていくようで、胸がにわかに沸き立った。今夜、星を観察する時には探そう。ひなこの星を。そう決意した。
昴は河原を埋め尽くしている手頃な小石を拾うと、その場にひとつひとつ並べていく。その手つきをひなこは黙ってじっと見つめているうちに、あ、と声をあげそうになったが、じっと堪えた。彼の指先の動きはとても静かで、なだらかで、延々と眺めていたくなるような穏やかさに満ちており、その一筋の先にあるゴール地点になんの障害もなくひたむきに向かっていく。ひなこは居場所を与えられていく小石の陣形を理解し、昴の指がもたらす即興の描写を見守る。はじめに大きな翼と胴体が現れて、そこから少し距離を置いて、尻尾のついた平行四辺形や、三角形を二つ合わせて翼を広げたような、そういった点々とした地図が描かれる。
最後の一つが置かれて昴が尋ねるように顔を上げる。
「夏の大三角形」
「そう」
二人の意識が星座のように繋がる。
夏の大三角形を成す、三つの星座である。実際は、河原の石のように無数の星が彼等以外に存在する。肉眼では見ることができないほど暗くも遙か遠景のどこかに存在している星や、他に負けじと輝く恒星がちらばっている。
「はくちょう座はやっぱり見つけやすいね。まずはここを探すといい。はくちょう座から、少し離れたところに、カシオペヤ座も見られるかもしれない。カシオペヤは知ってる?」
ひなこは首を横に振る。
昴ははくちょう座の頭から少し距離を置いた方、夏の大三角形とは反対側の方へ石を五つ、軽々と並べた。ぎざぎざに並ぶ、小さな集まり。
「カシオペヤは夏よりも冬の方が見えやすいんだけど、形が特徴的だから条件が良ければ夏でもきちんと見られる。周りが暗いからね、見つけやすいんだ」
「冬の星なのに、夏でも見られるの?」
「そう。北極点に近いからね」
そうして、昴は身体を伸ばし、また小石を並べる。あえて大きな石が置かれ、そこから小さな凧が伸びるように他の石が並べられる。ひなこは真新しいノートを開き、熱心に昴の描く石の星図を書き写し、先程のWの形をした星座の近くにかしおぺあ、とたどたどしい文字を綴った。
「これはこぐま座」
最後に並べた星たちを指して、昴は言う。
「そしてこのお尻のところの輝く星が、北極点。揺らがずに北の方角を示す星だ。だからこの星は季節関係なくほとんど動かない。この星を中心にして、他の星はゆっくりゆっくりと動いていく。昔の人は、北極点を探して、歩く方角が正しいのか考えたりしていたんだよ」
ひなこはふうん、と曖昧に相槌をうち、こぐま座を描く。北極点は大きな丸をつけて、わかりやすくした。
「別名でポラリスともいう」
「ぽらりす」
「うん、ポラリス」
昴はひなこの隣にやってきて、鉛筆を借りる。ひなこよりも一回り大きい手が、ひなこのお気に入りのピンクの鉛筆を無骨に握り、ひなこの星図を邪魔しない程度にさりげなくその名前が記される。ポラリス。きれいな響きだとひなこは思ったし、昴の字体で書かれたポラリスは、更に特別な気配を漂わせているようだった。
ノートに、主要な星座たちが少しずつ現れて、ひなこたちの手元に宇宙が広がっていく。小石を置いていく行為も、ノートに描いていく行為も、空に浮かぶ見えない星たちを写し取っていく作業だった。決して届かない遠いものがてのひらに宿る。下を向いているのに、上空を見上げているような不思議。
「最初から見つけるのは難しいかもしれない。カシオペヤから辿るのが一番解りやすいかも。でも、まずははくちょうだね。そして夏の大三角形だ」
まるで宝の地図を渡されて、その道筋を示されているようだった。
「見つけられるかな」
「見つけられるよ。慣れてしまえばすぐに見つかる。今夜も空を見上げてごらん。ひなちゃんは、いつまでおばあちゃんちにいるんだっけ」
ひなこは少しの間だけ口を噤んだ。
「明日まで」
「そっか」
昴はわずかに微笑んだ。褪せたような色をした声で。
「寂しくなるね」
ひなこには宇宙旅行からの墜落のように思われた。
今まさに、銀河を渡る旅へ向かう途中で、地図をもってさあいこうとはりきっていたところだったのに、出鼻をくじかれたようだった。
おばあちゃんの住む里山には、両親が仕事休みの時だけ訪れる。ひなこの小学校は例に漏れず夏休みの最中で、あと二週間ほどで終わろうとする現在は御盆の時期だ。青い夏にただよう線香の煙があちらこちらで誰にも気付かれないほど細くあがり、けれど多くのひとが線香を立てて、町全体がかすかな煙に包まれる。祝日でもないのに、死者が帰ってくる期間に休日が与えられる。死者との時間を大切にするように、と無言で言いつけられているように。しかし、ひなこにとって御盆の印象は薄い。両親が休みで、おばあちゃんちに遊びにいける期間以外のなにものでもなかった。おじいちゃんは、既にいない。おばあちゃんは、おじいちゃんや、ご先祖様のために麻がらを墓前に立て、きゅうりの馬となすの牛を用意する。そして線香を立てる。ひなこにおじいちゃんの記憶はない。ただ、両親の素振りを真似して、線香を立てる。
ひなこは物心がついて以来、ひとの死に直接触れたことがなかった。夏祭りで掬った金魚が翌朝小さな水の中で腹を空に向けて死んでいたり、おばあちゃんの慣れた手つきで蠅が叩かれて潰れたり、そうしたことには覚えがあるけれど、流れては過ぎてゆく川のように、忘却を辿っていったのだった。
昴はこの村に住む少年だった。彼もまた今は夏休みなのだと話す。他に行く場所もなく暇を持て余して川岸にやってきたのだと言う。そしてひなこと会った。ひなこが初めて昴を見かけたのは一昨年の夏で、同じ御盆の時期だった。そのときはお母さんと手を繋ぎながら散歩しており、橋を渡っていた。雨風ですっかり傷だらけになった橋を二人並んで歩いていて、真ん中で立ち止まって、お母さんは少し疲れた様子で川の流れに耳を傾けていた。
ひなこは小石をつまらなさげに蹴りながら広々とした川を眺めていると、河原に茂る草花に埋もれるように少年が座っていた。彼もまた少し疲れた顔をしているように見えて、風に揺れる草の動きに合わせて、雨の跡のような黒い影が彼の身体をたゆたう。その黒と対比的な、真っ白に太陽を反射するカッターシャツや肌の色が印象的だった。じっと水面を眺めているようだった。特に何か特別なことをしているわけでもなく、ただそこに存在しているのだった。
ひなこは水流ではなく、彼の動きを観察した。けれど彼はひなこの視線に気付かなかった。僅かに伏せた視線が追うのは水面のようで、石のようで、草木のようで、日光の照り変える輝きそのもののようで、どこも見ていないようでもあった。
何故少年に注目しているのか、ひなこは自分で自分が解らなかった。ただ、朝におばあちゃんが重たい足を擦りながら襖を開けていく音に耳をすませたり、足下で蟻が音もなく歩き続ける様子を眺めたり、そうした行為と同様に少年を見つめていた。やがてお母さんに呼ばれてその場を離れるまで、微動だにしない少年の動く瞬間を捉えようと飽きもせずに目を光らせていた。きらきらと熱中するように。
翌日、少し曇っていても、変わらずにおばあちゃんは家に風を通していく。ひなこはおばあちゃんの起床に負けじと起き上がって、その日初めて、ひとりで家を抜け出した。その日の昼頃には発つ予定だった。
雨を予感させる薄暗い雲が上空を覆い始めており、真夏の日光は遮られ薄らいでいる。気温の低い朝の道をひなこはたどたどしい足取りでなぞり、まっすぐ川へと向かった。
澱みのない朝は沈黙の中にある。早起きの虫の声がかすかに混じりながら、絶えず流れ続ける川の水音が広々とした山間に冴え渡っていった。
少年は、変わらず川岸に座っていた。河原を覆う草原に埋もれながら、その最前列で座って水流を見つめている。朝の空気に佇んでいると、彼もまとめて青白い光の中にくるめられているかのようだった。
「危ないよ」
ひなこは声をかけていた。その言葉を、昨日からずっと届けたかったように。
けれど、少年は気付かなかった。ひなこは橋の上におり、彼との間には随分と距離があった。彼等の間を水流が分かつ。ちょうど彦星と織姫を分断する巨大な天の川のようでもあり、しかし彼等は歩み寄ればふれあえるだけの距離にあった。
「危ないよ!」
今度の声には、警告の意をきちんと込めた。
昴にはその声が自分に向けられたものだとはじめは分からなかったという。しかし、音のする方へ、視線が動くごく自然な反射で少年の顔が上がった。清流を泳ぐ魚へ向けて一糸乱れぬ動きで急降下する鳥のように、的確に昴の耳に届き、彼はひなこへと意識を向けた。顔を上げた先で視線が交わり、ひなこの落ち着かない顔つきを見て、はじめてひなこの警告が昴へ向けたものだったと彼は自覚した。
川に近付いてはいけない、という両親の言いつけを、ひなこは忠実に守っていた。ひなこのように幼い子供は、簡単に川に流されてどこかに連れ去られてしまうのだという。ひなこは咄嗟にももたろうの物語を彷彿させたものだった。はじめはよくわからなかったが、何度も言い聞かせられるうちに、本当に行ってはいけないのだと刷り込まれていった。
昴少年は、手を伸ばせば簡単に流水へ触れられるほどの距離にあった。ひなこの危険信号は赤を示している。その赤い信号を昴に伝えようとしたのだった。
けれど彼は、はらはらする怯えた少女に、ふわりと笑った。青い朝に溶けきらずに静かに笑んで、首を振った。
「大丈夫」
橋の上にいるひなこにも届く声であり、流水音に紛れ込みながらも、音のほとんどない静かな村では他に遮るものがなかった。
「おいで、ここなら何も恐くないよ」
川面にほど近い場所から昴は躊躇なくひなこを誘った。ひなこにとって赤信号のその場所から。しかし昴が優しく手を差し伸べたものだから、その手を取ってみたくなったのも事実であった。
特別な朝の空気が彼女の心を緩め、行ってはいけないと禁止されたものへの純粋な興味が代わりにひなこの中で膨らみだし、そしてその場所に立つ少年の存在が無性に彼女を惹き付けた。少年のところに行きたい、という純粋な思いである。
警告をした本人が跳びこんでいくというのも滑稽な話だが、このときのひなこはその滑稽に無自覚で足を踏み入れた。橋のふもとから河川敷へ繋がる石階段があることは把握していたのである。古びて僅かな亀裂を点々と帯びたような階段を恐る恐るくだり、自分の身長をも越えて遙かな太陽へ向け伸びる草花は、彼女にとって森のようだった。森を踏み分け、川の音のする方へ向かう。彼女を誘う音を目指して抜けた先から、ちょっと距離を置いた地点で、遠かった少年が同じ体勢で座り込んだままひなこを見た。
以来、ひなこは川へ向かうようになった。ひなこはこの村の住人ではない。ゆえに、限られた時間を使って昴へ会いに行った。しかし昴に会えるのは夏休みの時だけだった。他の季節、たとえば正月だとか、ひなこはこっそりと橋へ向かい河川敷を見下ろしたが、どうしても昴の姿を見つけることができなかった。そのことについて昴は詳しく話さなかったし、ひなこも詮索しようとはしなかった。彼と会える夏のほんの短いひとときを楽しむことだけが、彼女にとって重要だった。
今年もそうして昴に会えた。ひなこは昴に会ってから星に興味を抱き、少しだけ文字の多い本を読めるようになってきて、少しずつ昴の言葉も理解できるようになっていった。
そんな二人だけの時間も、今年の分はもうじき終えようとしているのだった。ひなこは自由研究ノートとおばあちゃんから借りた図鑑を持って、夏の昴から離れていく。車で二時間ほどの距離は、長すぎずとも短くはなく、ひなこにとっては切実に遙かな距離だった。
しんみりとした空気から顔を背けるように、ひなこは星の質問からおばあちゃんちでの話まで様々な言葉を昴に投げかけた。昴はやわらかい相槌を打ちながらひなこがすべて話し終える時を待って、それからいつも話し出した。昴がどちらかといえばのんびりとした人間であることをひなこは肌で理解していた。ひなこに合わせているというよりも天然の産物なのだった。昴のゆっくりとした速度は、ひなこの速度と合致した。うまく聞き取れない大人たち同士での会話は、時に学校での授業や友達との会話だって、速過ぎてひなこにはついていけない。感情の機微もうまく読み取れない。わからないということは不安と同一だった。ゆっくりと合わせてくれれば、ひなこにだってわかることはきちんとわかる。そしてひなこにわかる速度であるとき、大体、そのひとの時間はゆったりと流れている。
ひなこがおばあちゃんを好きなのも、おばあちゃんの速度が遅い分、ひなこに理解できるからだ。足を引きずるようにして歩く音、朝に襖を開けていく音、すべてがゆっくりとした動作で、ひなこを安心させる。
「今夜は星、見えるかな」
「見えるよ。きっとね。ひなちゃんのいる町よりここはずっと暗いから、星がよく見えるよ」
「帰ったら、金星、見えなくなっちゃうかな」
大接近は御盆を過ぎて八月末の予定だった。夏休みの終わり際で、音も無く秋へと移り変わろうという頃、学校ももうすぐ再開する。その時ひなこは自分の家にいて、天体観測は両親と近所の公園でするつもりでいた。けれど、町の光に遮られて見えなければ、元も子もない。
昴は苦笑する。
「大都会というほどではないし、見えるんじゃないかな」
「ほんとう?」
「うん。金星は女神の星だから」
「女神?」
「きれいに輝いてるっていうこと。ひなちゃんにもきっとわかる」
「にくがんでわかる?」
肉眼の発音は、聞き慣れない分言い慣れないといったようにたどたどしい。
「うん。わかる」
昴は静かに頷いた。
大切なことを貯めておくように、ひなこは金星について書かれたページに「めがみ」「にくがんで見える」と書いた。
「目で見える、とかにしたら?」
「にくがん」が少し浮いているように感じたのか、昴はそっと提案したが、ひなこは首を振った。
新しい言葉を増やすほどにひなこの解ることは増えていく。ひなこにとって早過ぎて理解の及ばない世界について、ゆっくりゆっくりとした速度で、ひとつずつ知っていくのである。
ひなこはページを戻し、改めて、昴の手で描かれた石をもとに描いた星図を眺めた。はくちょう座、わし座、こと座。そしてぎざぎざのカシオペヤ座、こぐま座、北極星ポラリス。まだどれも記号で、名付けられたあたたかみが浮かび上がってくるにはほんとうの空で探す必要があるだろう。
「すばるくん、今夜一緒に星を見ようよ」
ひなこはそう言った。
途端に昴の穏やかな表情に僅かな雲がかかった瞬間を目の当たりにして、ひなこは遅れて思い出した。去年もそう言ったこと、そして昴がやんわりと曇らせた言葉たちのことを。
「今日はだめ」
とやんわり昴は言う。今日は、と言うけれど、本当は今日も、だった。いつかは一緒に見られるかのような期待を抱かせるような言い方をするけれど、それは嘘だった。
いつだったらいいの、という言葉をひなこが呑み込んだのは、昴を困らせたくはないからだった。ひなこはひなこなりに、大人たちが子供に言ってほしくはないだろう言葉を使わないように心がけていた。どうしてだとかこれが欲しいとかあれをやりたいだとかそういった出て行かなくなった言葉が増えていくほどひなこの声は減っていった。そのときに出てくる大人たちの曇り顔を見たくなかった。それは昴に対してもそうなのだけれど、昴は嫌な顔をあまりしなくて、どうして、や、なぜ、に対して穏やかに答えてくれるから、出てこなくなっていた言葉が溢れるように飛び出して、やがて困り顔が表れる。そのたび密かにひなこの胸は苦しくなる。
「ごめんね」
先に謝られては、ひなことしては太刀打ちができないのだった。
「ううん」
それしか言えなかった。
あたしこそごめんね、どうしてだめなの、どうして一緒に歩いてくれないの。星を見ようよ。きれいな星を見て、いっぱい教えて。すばるくんがすきだから一緒にいたい。夜だってすばるくんがいたらこわくない、きっとお母さんたちだって少し遠くにいくことをゆるしてくれる。ちょっと歩いたって平気だよ。あのね、おばあちゃんの作るお野菜はおいしいんだよ、だから一緒に食べようよ、うちにおいでよ……。
ふわふわと浮かんでは消える、星屑のように、流星のようにさっときらめいて虚空に溶けていく。姿を隠した言葉たちをひなこはひととおり押し込んで、ノートを閉じた。
少し濁ってしまった空気を洗い流してくれるのは、いつも川のせせらぎだった。いつまでも流れていく永遠が沈黙をゆっくりとほぐしていくのを彼等はただ待っていて、ひなこは不意に草原に隠れていた小菊のことを思い出した。向日葵の黄色にも負けない、鮮やかな黄色い花びらをぎゅっと小さく丸めたような小さな花たちのことを。あの花を昴に贈ったら、彼はこわばった表情を弛めて笑ってくれるだろうか。でも、きっとあの小菊は、誰かがあえてこの場所に置いていったもので、それを横取りするのは良くないことのようにも思った。
「今日は、このくらいにしようか」
昴はぽつんと提案した。
「もうすぐきっと、雨が降るから」
「雨? こんなに晴れてるのに?」
ひなこは目をまたたかせる。
「うん。あれはだいぶ大きな入道雲だから。下の方がくすんでいるでしょう。きっと強い雨雲を連れてくる」
正面の入道雲はどんどんと大きくなってきていて、言われてみれば眩しいばかりの白い雲ばかりでなく、その影は暗い。とはいえ、まだ随分と遠いように感じられた。
「お昼の時間も近くなってくるしね。夜の星をきちんと見たいなら、今は休んでいた方がいい」
「明日も会える?」
「うん。きっとね。でももし雨が降り続いたら来てはいけないよ。川の流れが急になって、危ないから」
それはお父さんにも何度も言われてきたことだった。今だって、お父さんの言葉を無視してひなこはここにいる。
「そうしたら、夜のことを話してよ。明日の朝、晴れていたらきっといるから。僕も星を見るよ。隣じゃなくたってどこかでひなちゃんと一緒にいる。夜は遠くのものを近くするから」
昴の放った言葉の意味をひなこはうまく解釈できず、曖昧に首をひねった。
それからは促されるままに、ひなこは昴に優しく手をとられ、もうもうと膨れ上がる積乱雲を背後にして葦の海を渡ると、もとの階段を登っていった。川に浸したような気持ちの良い昴の手を握って、いつまでも離したくないように指先に力を籠めた。足取りが重く、橋の上に戻ってくると昴の手はあっさりと離れてしまった。反対側へ行くという昴とはいつもここで別れる。
昴の向こう側に鮮やかな青空と入道雲、その雲のきれはしに遠雷の輝きを見た。鮮やかな青さに僅かな閃光。眩く太陽があたりを照らしている中で、何故だかひときわ目を惹き付ける瞬間をひなこは目の当たりにした。昴をじっと見ていたはずなのに、彼をすりぬけて遙かな空の軌跡を捉えたようだった。
ひなこは目を一瞬伏せる。
「またね」
昴は微笑んで手を振る。ひなこの心に気付かないでか気付かないふりをしてか、ただ、正しい方向へ導こうとする。夏の大三角形や夜空の昴を語る星の案内人に、こちらですよと言われれば、ひなこはその方向へ向かう。
ひなこは肯き、まだどこか納得しきれない顔で手を振り、家路を辿り始めた。
その間、引き留められるのを期待するように何度も振り返るが、昴はひなこの望むようにはしてくれず、いつまでも手を振っていて、頑なですらあった。
カーブを曲がって川の音がどんどん遠のいていき、橋が視界から消えた頃、ひなこは弾かれるようにもとの道を戻った。ひるがえって反対側へと向かう昴の背中を後から追いかけるように。
しかし、橋を再びひなこの視界が捉えた時には、少年の姿はもう無かった。
家に戻り、雨戸だけで施錠もされていない玄関で靴を脱ぐ。
おばあちゃんとお母さんは相変わらず話し続けていて、その手元には小花があしらわれた洒落たデザインのカップにコーヒーが淹れられており、もう冷めているのか一切の湯気が立っていなかった。お父さんは別室にて座布団を枕に小さな寝息を立てている。弛緩した雰囲気にひなこはほうと息を長く吐いて、寝る部屋に一度戻る。投げ出したままにしていた布団は片付けられてある。お母さんかお父さんが畳んでくれた布団に正面からとびこみ使い古した綿のやわらかさを感じていると、まどろみが通り抜けていく。
布団の中に顔をうずめたまま瞼を閉じると、あたたかい闇がひなこの視界に広がった。眼は絶えず活動しており、視界を遮って生まれた深い暗闇を見つめている。蝉の声がくぐもって聞こえてくる、その中に青い昴を描こうとした。はくちょう座にわし座にこと座、その中で結ばれる巨大な三角形、カシオペヤ座とその近くにきっと存在している北極星ポラリス。そして金星。すべてが一緒にはなりえない、架空の夜空を闇に浮かび上がらせようとした。けれどどこかがうまくいかなかった。きっと昴ならば、軽やかな手つきで整然と正しく星座を河原に描いた昴の瞼の裏ならば、青く輝く無限の夜空が広がっているのだろう。ひなこの瞼の裏は、ずっとただ暗闇で、時折ぼんやりと朧月のような白く淡い光が明滅するばかりで、そうしている間に、だんだんと布団で膨らんだ熱から逃げるように顔を上げ、諦めたように畳に転がった。
木製の天井は沈黙している。細い線がゆらゆらと揺らいでいるようで、けれどしんと沈黙しているのだった。
ひなこはその線の一部分を、あれがはくちょう座の、確かアルタイル、と定めた。そこから伸ばすははくちょうの翼。はくちょう座が一番判りやすいと言った昴に導かれるようにはくちょう座をひとつ木目に定めようとした。夏の光差し込む部屋の中で、ひなこは大の字になって草原に寝転がっている。夜露に濡れてぬるいそよ風が撫でていく夜のどこかの庭に仰向けになって天蓋を眺めている。本物でない天蓋に思い馳せているうちに、暑い光に晒されて汗だくになった身体は休息を求めて、自覚のないままに眠りに落ちていった。
轟いた雷鳴でひなこは目を覚ました。
続いて激しい雨音がしきりに鼓膜で騒ぎ出す。
僅かに浮いた肩。ふわりと軽い瞼を持ち上げ、開け放したままの薄暗い障子の間から、縁側が見えて、外は白くなっていた。目を開けていられないような眩い太陽の白ではなく、少し薄暗くなった中で雨の一粒一粒が巨大な線となって叩き付ける、そうした一閃一閃が淡い光を放つように白く空中を切り裂いていく。濁った白でありながらどこかからの光を受けているのかあるいは雨自体が発光しているような輝きをたたえている。そうした連なりが止め処なく続いて、全体的に白く塗りつぶされていた。薄い窓硝子はしきりに音を立て、耐えきれずに割れてしまいそうだった。窓の向こうの小さな庭は巨大な湖となって、遠景は灰色に霞んで山々は霧中に眠る巨大な生き物のようだ。
昴の話した通り、凄まじい通り雨が真夏を通り過ぎていく。ひなこは激しい雨と時折響く雷鳴に気をとられながら、自由研究用のノートを出した。金星で始まるページには目もくれず、真新しい見開きのページを床に広げる。そして鉛筆を静かに構え、再度外の雨を見た。上空から地面へ叩き付けられ轟音を立てて飛沫を上げるそれぞれを見抜こうとした。
やがて鉛筆が縦に走る。黒鉛が白いノートに次々と宿っていく。縦に、縦に、勢いを殺さず、幾度も、幾重にも、縦に、縦に、繰り返した。短い線に長い線、濃厚な線に淡泊な線、やや斜めに傾いた線に揺るぎのない垂直の線、実に様々な雨の線がひなこのノートに次々と刻まれていった。やまぬ雨音が続く中、ひなこの手元で鉛筆は鉛筆なりの轟音を示すように一心不乱に描き続ける。雨と黒鉛のたった二つの音だけがそこに存在していた。ひなこの息づかいは鉛筆に宿っていた。黒鉛の示す線は鼓動のようだった。鉛筆はみるみるうちに先が丸くなり、ひなこの手は紙上を滑って黒く汚れ、同時にノートもひなこの手で鮮明だった線がぼやけて、それは遠くの山を雷雨が覆っているように濁っていた。ただ、外が白くあるのに対し、ひなこのノートは雨を重ねていくごとに黒く汚れていくのだった。その矛盾を余所目にひなこはその手を止めなかった。執着的なまでに線を重ね続けた。
世界をいっぺんに覆い尽くして黒く染めて星すらも見えなくなるような黒い両面のページは、ひなこの力強い筆圧でべこべこに歪んでいた。
やがて通り雨を伴った雷雲が上空を過ぎ去っていこうとしていて、少しずつ雨が弱くなっていく。雨音に耳が慣れたのと同時期だ。みるみるうちに雨が静かになっていって、ひなこの手元の音とほとんど同じになり、やがて鉛筆の音だけが部屋の中に残った。他の音は雨で洗いざらい流されていったような静寂に満ちて、虫の声すら暫くは豪雨に打たれて死んだように聞こえてはこなかった。鉛筆はすっかり丸くなって、太く黒い線ばかりがノートを傷めていった。やわらかくも鋭い音がただひとつ鳴り、それもやがてゆっくりと収まっていく。鉛筆がほとんどへこんで、描けなくなっていったからだった。
ひなこはまっくろになったページを見つめる。もとのノートの白がはっきりとしないくらい、黒い雨が覆い尽くしていた。
雨があがってしばらくして、ひなこはゆっくりとしたその音を耳にする。床をさする、健気で、遠慮がちな思慮深い足音。ひなこはそれをじっと聴いて、同時に胸がやわらかくなっていく気配を感じた。
やがて、雨の香りを含んだ風が家中を通り抜けていくだろう。ひなこの視界におばあちゃんの姿が入る。おばあちゃんのゆったりとした動作が、音が、朝ひなこを起こすように、ひなこを安堵させるようにやってくる。鉛筆を置き、ノートを閉じた。黒いページが合わさり、闇夜に消えていった。
豪雨をもたらした積乱雲は過ぎ去り、夏を取り戻すような弾丸の日光が地へ直射する。暗雲はたちまちに走り抜けて影すらも残していかない。葉からしたたりおちる雫や、庭に広がる巨大な水溜まり、深い湿気がたちのぼる雨の匂いをまとった空気が、雨が地上を叩き付けていった軌跡をものがたる。
夜も雲は殆どなく、滞りなく時間は過ぎていく。畑で取れたというとうもろこし、たっぷりとした肉じゃが、こんがりと焼かれたししゃも、朝も登場したレタス主体のシャキシャキサラダ、茄子と豆腐の味噌汁に白米と食卓は彩られ、和気藹々とひなこの前をいくつもの会話が瞬いていく。時折ひなこに話題が振られて、ぎこちなく返事をした。ひなこは諦めているわけではなく、精一杯聞こうとしている。それでもほろほろと手の隙間から水が零れていってしまうように、言葉を掬っても掴むことができず、手の中には水の這った跡ばかりが残っている。かろうじててのひらを丸めて小さな水溜まりを作っても、その上からどんどんまた降り注いでいくから、すぐにいっぱいになってしまう。
お父さんが今夜は星を見に行こうと言った、そのことはきちんと理解できた。
ビールを飲んで気分の良くなったお父さんと手を繋いで、ひなこは庭に出た。山は明かりが少なく、星がよく見えた。雨の気配などほとんど感じさせないまっさらとした夜空だった。月が薄い分、星の観察には具合が良い。深い藍に浮かぶ魂の明滅の中で、ひなこははくちょう座を探した。夜を翔る白い翼を探した。石で出来た、昴の描いた星座を思い返しながらほんとうの星を探した。頼りにするのは眩い一等星だ。存在感は他を凌駕する。あ、とひなこは声をあげる。あれはほんとうのはくちょう座だ。点でしかない、実際には遠く離れた星たちを薄い線で結ぶ。翼が広がり、胴体が延びる。巨大な十字を作る。お父さん、あれはくちょう座。ひなこが呼びかけると、お父さんは目を凝らした。あの眩しい星がデネブっていうんだよ、とひなこの幼い指ははくちょうの頭を指差した。どれ、とお父さんは尋ねる。あれだよ、あれ。きらきらしてる星。どれもきらきらしているよ。一番の星。ひなこは必死に指を伸ばした。ああ、あれかあ。お父さんは頷いた。ほんとうに解っているのかな、とひなこは小さな疑問を抱いた。ひなこの見ているはくちょう座と、おとうさんの見ているはくちょう座は果たして重なり合っているだろうか。無数の星が明滅する中で、同じものを掴めているのだろうか。昴は今星を見ているだろうか。はくちょう座を見つけて、続けてアルタイル、ベガと次々と捉えているだろうか。カシオペヤ座、そしてポラリス。昴の瞳はもっと違う星だって掴むだろう。冴え渡った黒い瞳に、星がいくつも浮かんで、瞳の中に夜空が出来上がっていることだろう。
金星見えるかな、とぽつんとひなこは言った。え、とお父さんは少し驚いたように声を上げてひなこを見下ろした。どうするべきかを考えた末にようやく答えを導き出したように、長くじらした上で、今は見えないよ、とひなこに言った。
見えない?
うん。見えない。金星はこんな時間には見えない。今の時期は、朝に出てくるらしいよ。夜明けの頃。
ひなこは目を瞬かせて、再度天空を仰いだ。ぼんやりと北十字を見つめ、てっぺんのデネブに視線を注いだ。
あれは金星ではない。その周囲をちらつく星もすべて金星ではない。金星は今この夜にいないし、夏と冬ですれちがって現在見ることができない昴のようにこの夜にいない。きっと夏の大三角形と一緒にいるものだとひなこは確信していて、昴も家族も誰も、いつ金星が出てくるかを伝えてはこなかった。正しいとも誤りとも。ほんとうだろうか、ほんとうに金星はいないのだろうか。あのまたたく星の中に実は存在しているのではないのだろうか。そして大接近の日、一等星にも負けない輝きで夜空を呑み込んで星の表面が見えるほどの存在を示すのではないのだろうか。月のおうとつが暗がりによく映えるよりももっと近付いてきて、金星のきっと透き通ったような金色の肌が空に現れて、地球だって金星と一緒くたになるように。月も他の星もぜんぶ、まとめて、今この夜空を溶かす。ひなこはおばあちゃんの足音を思い出した。朝の香り、涼やかな風、障子の音、夜は全て薙ぎ払われた薄い光。空はただ青いばかりだ。朝に星は存在しない。ひなこはお父さんの手から離れて、今すぐにでも昴のところに行きたかった。彼は今どこにいるのだろう。あの河川敷にまだいるのだろうか。いいや、こんな夜だから、きっと家に帰っているだろう。彼の帰る場所についてひなこはなにも知らない。昼間だけ、水流と共に彼はやってくる。ひなこに水を与えるようにやってくる。
どこかから、乾いた匂いがしてその微細な糸をひなこは掴む。おばあちゃんが、線香を立てていて、彼方でりんを叩いて、淡い音は閉め切らない家の中を通り抜けていく。
そっか、とひなこは空白を抱いた声で呟いた。虫の声に遮られていった、中身のない冷たい声が自分の喉から飛びだして、ひなこ自身驚くほどに空疎だった。虫が泣いているようで、ひなこもなぜだかとても堪えられないようで、けれどもしかと彼女は金星でも昴でもない星々を仰いだ。
翌朝、まだ夜が残っている、青白い光が澄み渡った空を薄らと侵食していく。おばあちゃんの足音は聞こえない。襖を開けていない、けれどもどこかで生まれている隙間から外の風が漂ってくる。お父さんとお母さんの寝息が耳の近くで聞こえる。ひなこは両親を起こさないように慎重に、少しも音を立てないように、といったように布団を出て、また襖を開けた。思わず目を細めるような光はまだどこにもなく、ほんのすこしの朝の光が細い線を部屋に描いて、そして音もなく閉じた。廊下を歩く際も音を立てないように。台所を通り抜け、玄関にやってくるとひなこは赤いサンダルを履いた。鍵を開けるには苦労しないが、玄関の扉は引き戸になっていていつもガラガラと耳に障る音がするから、それが少しでも鳴らないように、息を殺してほんの僅かずつずらしていった。幼いひなこ一人分が通り抜けられるだけの隙間ができると、その隙間を腰を落としてくぐり抜け、そしてまた静かに戸を閉める。完全に隙間が閉じられると、ひなこは安堵のあまりその場にへたれこみそうになった。外はまだ薄暗く、蝉の声も車の音もなく、静寂に満ちて全く違う異世界のようだった。
そうしてひなこは玄関から離れて、緊張を胸にして歩き始めた。
たったひとりで路を歩くことなんて、昨日も去年だって行ったことなのに、まるで違う路を歩いているようだった。
山間でひっそりと生活を営むひとたちの気配が無く、道ばたに広がる鬱蒼とした草原や、その向こうで揺れる夏野菜や秋野菜の畑がさわさわと風に揺れて音を立てている。その隙間から虫は鳴いて、姿を見せない。青い闇とまだひなこは一緒になっていて、暗い道を歩いた。かすかに線香のにおいが漂っているような気がした、なにか、目に見えないものが漂っているような雰囲気があった。ひなこはその間、空を時折仰いだ。星の数が、夜中よりもずっと少ない。僅かずつ明るくなっていく空に掻き消されて、いく。ひなこはぐっと堪えるように、人気のない古びた坂をのぼって、水流へと向かっていった。
薄汚れた橋は、白を帯びているから、薄暗さの中でその形が浮かび上がるようだった。
虫の声も風の音も静かに払っていく水の中、その音も遠くに消えていくようで、ひなこは眼下に視線をやる。昨日の昼間澄んでいた川は、通り雨によって抉られた川上の泥がそのまま流れてまだ消えきっていないように濁りを抱いていて、そして河原の葦の原に達してまるごと流れていっていた。添えられていた鮮やかで可憐な小菊もまた、水に流れされてどこかへ消えていったことだろう。川は広がり、高くなり、少しだけ姿を変えて、そしてまた何事も無かったかのようにもとの姿へ還っていくのだろう。
昴はいない。どこにもいない。河原でしか出会ったことのない、彼はどこにもいない。
ひなこは唇を噛み締め、橋に手をかけて、そして空を見上げた。
そうして、はっと気が付いた。激しい雨と黒を抱いたノートにまだ描いていない、だけれども昴が確かに教えてくれた、堂々とした星座を見た。
三点並ぶ二等星、そしてそこから三角形を組合せ、砂時計を描いたような、一等星を対局に抱いた、目を引くオリオン座が、少しずつ少しずつ白けていこうという天空に存在していた。
昴はどこだろう、とひなこは咄嗟に思った。オリオン座は冬の星座で、昴は冬の星で、オリオン座の近くにあったはずだ。青い五つの星。ああ、どこに目をやったら。ひなこは目をこらして、どこにも遮るもののない空を探した。もう空が明るくなりつつあって、随分と星は光に紛れてしまった。オリオン座も薄まっていく、その中で、一点、輝きを見つけた。ただ一点だ。
不意に、名前を呼ばれた。ひなこ、と呼ばれて、咄嗟に視線をやると、坂を登ってくるお父さんの姿が見えた。
川に行っちゃだめだって言っただろう。お父さんは呆れを含んで静かに怒りながら、ひなこは聞き流していたお父さんの警告を思い出した。昴に会うには、川岸でなければならなかった。ひなこは消えきらぬ焦りと安堵の浮かんだお父さんの顔を見あげる。額に汗を滲ませて、きっと走り回って探してくれたのだろう。ひなこはじっと見つめ、それから、ごめんなさい、と謝って、そしてあの一点の輝きが消えてしまわないか、そっと視線をやった。ひなこの目の動きにつられるようにお父さんは空へ目を向けると、金星、と呟いた。
ひなこは目を瞬かせる。金星。あれは、金星だった。東から夜明けを連れてくる金星だった。音もなく凜と輝くその星に目を奪われながら、たとえ接近しても、あれほど遠くては、地球を呑み込むことなんかないと理解した。金星はただ遠くで輝いているだけで、しかしその光はオリオン座に一切負けぬ力強い輝きだった。
ねえ、お父さん。すばるって知ってる? どこにある?
ひなこは尋ねる。お父さんは首を捻り、空を見回した。明るくなり始めたら早く、雲がほとんどない空で、オリオン座はもう消え。わからない様子だった。
山の向こうからじきに太陽が出て、世界を明るく照らし、星は見えなくなるだろう。見えなくなるだけで、消えるわけではないことを、見えなくなったオリオン座や薄れゆく金星の姿を感じ取りながらひなこは思った。昴はほんとうはどこにもいないのかもしれない。あのやわらかな笑顔や穏やかな声は、小菊と一緒に水に流されて、夜空に溶けていったのかもしれない。けれど、どこかに昴はいて、冴えきった冬の夜にだけ孤独で佇むのではなく、きっとこの夜明けのどこかにいたのだ。消えず、きっとどこかに。ここは境界だった。朝と夜が交わる、夏と冬が交わる、オリオン座と金星が交わる、昴とひなこが交わる、刹那の瞬間。
「帰ろう、ひなこ」
ひなこの手をお父さんの手が包む。その時、ひなこは自分の手が随分と冷えていたことに気付いた、それはお父さんの手がとても温かかったからだった。
了